グァテマラの風に乗せて

「コーヒーには、それぞれの物語があるんだ。」

そう言って、アルトゥーロ・アギーレはカップを傾けた。

私がグアテマラに来たのは、ただの気まぐれだった。コーヒー好きが高じて、ついにその源流を訪ねてみたくなったのだ。日本のカフェで飲んだグアテマラの豆はどれも香り高く、心地よい甘みがあった。特に、エル・インヘルト農園の豆は格別だった。だが、その背景にどんな物語があるのか、私は何も知らなかった。

「エル・インヘルトの名の由来? それは、この地に自生する果物の名前さ。」

農園のオーナー、アルトゥーロは笑いながら答えた。彼の話はどこか朗らかで、それでいて芯がある。

「ひいおじいさんのヘススがこの土地を買ったのは1874年。まだコーヒーなんて誰も作ってなかった。最初は別の作物を育てていたけど、1900年頃になってコーヒーに手を出した。それが、今につながる最初の一粒だったんだ。」

彼の手のひらには、真っ赤に熟したコーヒーチェリーが乗っていた。私は指でそっとつまみ、歯を立てる。甘酸っぱい果肉の奥に、コーヒーの種が潜んでいた。

「この土地は火山性の土壌じゃないけれど、ミネラルが豊富でね。標高は1,500メートル以上、気温は22度くらい。雨も適度に降るから、コーヒーを育てるには最高の環境さ。」

私は頷いた。確かに、この土地に吹く風はどこか柔らかく、力強い。

「でもな、いいコーヒーを作るには、それだけじゃ足りない。」

アルトゥーロはぐっと身を乗り出した。

「うちの農園は、毎年売上のほとんどを再投資してる。例えば、水力発電を導入して、ディーゼル燃料を使わないようにしたりな。チェリーの発酵槽には空気の通り道を作って、ムラなく発酵させるようにしている。それに、収穫を手伝ってくれるピッカーは近隣の人に限定してるんだ。800人もの人が、この農園で働いてるよ。」

私は驚いた。800人——そんなに多くの人の手が、このコーヒーを支えているのか。

「毎年、同じピッカーが戻ってきてくれるからな。彼らの経験が、収穫の精度を上げてくれる。すると、コーヒーの品質も良くなるし、結果的にみんなの給料も上がる。ウィンウィンってやつさ。」

彼の表情は、自信に満ちていた。

「でもな、コーヒー作りってのは、楽なことじゃない。最近は、新しい品種にも挑戦してるんだ。たとえば、エチオピア原生種——Etiopia Heirloom。これを、高地のパタゴニア区画で育てている。」

「エチオピア原生種? どうしてわざわざそんな品種を?」

「いい質問だ。」アルトゥーロはにやりと笑った。

「コスタリカの友人がな、この種を持ってきたんだ。面白そうだろ? それに、ナチュラルプロセスにも力を入れ始めた。ピッカーたちのスキルが高いからこそ、熟度の揃ったチェリーを収穫できる。それが、うちのナチュラルの強みになる。」

彼は遠くの山々を指さした。

「100万本以上のコーヒーの木が、あの向こうまで広がってる。一つ一つの木の健康をチェックするのが、俺の仕事さ。画一的なカットバックなんてしない。全部、個別に手入れしてるんだ。」

私は唖然とした。そこまでやるのか、と。

「この仕事は、情熱がなければ続けられないよ。でもな——」

アルトゥーロは、カップを一口すすった。

「うちのコーヒーを飲んで、『美味しい』って言ってくれる人がいる限り、俺はやめないさ。」

——カップを手に取り、私も一口飲む。オレンジのような爽やかさ、プラムの甘み、ワインのような深み、そしてチョコレートのような滑らかさ。飲み終えた後にも、余韻が長く残る。

「こりゃあ、ただのコーヒーじゃないな。」

「だろ?」

アルトゥーロは満足げに笑った。

——グアテマラの風に乗せて、今日もまた、一杯のコーヒーが旅立っていく。